定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その五一  「慈恵学園停留場」】

 

〈慈恵学園停留場〉

昭和三四年四月一日に開駅。

東札幌停車場起点より五km五七四m。

ホームは片面で五〇m。幅二.七m。

 

 昭和三一年三月に札幌で設立された『学校法人慈恵学園』の校舎が、定山渓鉄道が斡旋した近隣の丘の上に建てられました。札幌慈恵女子高等学校(現札幌新陽高等学校)という名称で昭和三四年四月一日に開校、通学生の利便のためにこれに合わせて学校より最も近い線路位置に停留場を設けました。停留場とはいっても他の駅とは違い、立派な駅舎が設けられて定期券販売なども取り扱うなど、主に通学時間帯には駅員も配置されていました。朝、夕には「学生専用」の電車が運行されたこともあるようです。

しかし、そのわずか一〇年あまり後の昭和四四年一〇月三一日には定山渓鉄道は営業を廃止、停留場も廃止となってしまいます。利用客が多かった割には短命な駅でした。

 

 すでに札幌オリンピック開催が決定し、札幌市の地下鉄計画によって藤の沢までの線路敷地が一括譲渡されたため、この停留場駅舎も廃止後すぐに解体撤去作業に入ったと思われます。オリンピックに間に合わせるための突貫工事の末、廃止から二年後の昭和四六年一二月には市営地下鉄南北線が開通し、線路跡地は銀色の高架スノーシェルターに生まれ変わりました。この地下鉄建設に際しては学校を含む近隣住民の一部から慈恵学園停留場跡地にも駅が設けられることが期待されていたそうですが、実現しませんでした。計画上、自衛隊前駅からの距離が短くなることがその理由とされているようですが、実際には澄川駅より約八〇〇mほど、自衛隊前駅とは約四〇〇mほどの距離にあたり、問題となるほどの駅間距離ではないように思うのですが、建設期間や土地の制約などほかに事情があったのかもしれません。

駅舎の跡地は現在、澄川児童会館と南消防署澄川出張所が建っています。

 さて、この慈恵学園停留場が置かれた同時期にはほかに、緑ヶ丘停留場(昭和三六年四月)、十五島公園停留場(昭和三四年六月)が続けて開駅しています。いずれも利用客増をねらいとして自社開発に力を入れた土地分譲地の至近に設けられた点で共通しているのですが、客観的に見て駅としての体裁はあまり充実しているとはいえないものでした。真駒内団地造成によって近隣の人口増が約束されていたはずの緑ヶ丘停留場は、待合すら持たないホームのみ。同様に自社不動産部門が大々的に分譲を始めていた藤野、十五島公園地区。宣伝コピーにも「通勤に便利な定鉄電車」をアピールしていたにもかかわらず、開駅してみればホームが1本の無人駅。鉄道部門としては利用客や取扱貨物量が増え続けていた黄金期、まさにピークを迎えつつあったことを考えても、「この程度の扱いでよいのか?」という物足りなさが感じられるのです。

 これは『その四七 緑ヶ丘停留場』の記事でも触れましたが、この時は札幌市との合併、札幌オリンピック誘致活動、新交通網の策定などが進められている最中。そして何より並行する国道や沿線の急速な道路整備によって小回りの利くバス路線

が拡充され始めるなど、黄金期とはいえ電車部門にとっては厳しい条件を突き付けられ、実際にはこの時すでに営業廃止のシナリオが水面下で着々と描かれていたのかもしれない、と思えるのです。

 

 昭和三二年一〇月一日、定山渓鉄道株式会社は東急系列会社となります。翌三三年四月より不動産事業が本格的に始められ、同時にバス路線の拡充が図られます。大正七年開業の定山渓鉄道にとってはこの時が史上最大の大変革期となりました。

 

※カットは上より、慈恵学園停留場平面図。二段目左は廃止とともに解体作業の始まった駅舎。右は現在の澄川児童会館と地下鉄シェルター(方向は逆)。三段目、正面に見えるのが元慈恵学園で現札幌新陽高校)。最下段は学校への坂道から駅方向を見下ろした風景。地下鉄シェルターの下が線路だった。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

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