定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その五〇  「鉄道建設の陰に」】

 

 定山渓に至る軽便鉄道構想が具体化し大正二年七月二二日に省線苗穂駅を起点とする最初の認可を得たものの、同年夏の豊平川大出水によって敷設できなくなり、省線白石駅を起点に路線変更して再認可を受けたのが大正五年五月一八日。真駒内より先の土工部分は先行して建設が始められましたが、それより手前の豊平、平岸といった区間のその後の用地取得が難航し、全区間での建設着工を見たのはさらに一年後の大正六年五月のことでした。華々しく開業を迎えたのは翌大正七年一〇月一七日。わずか一年半で工事を完了させたわけですが、このうちおよそ半分ほどの区間は豊平川に接する断崖の近くを通り、難工事であったことを容易に察することができます。

 

 突貫工事によって短期間のうちに開業までこぎつけることができたのは、毎日のように現場へ出て陣頭指揮を執ったという、松田学社長以下取締役の熱意はもちろんのことですが、下請け業者への待遇が良かったという理由もあったようです。しかしその一方では、一部に『タコ部屋労働』と呼ばれる過酷な現場の存在も記録に残されていました。

 大正から昭和初期にかけての北海道は、開拓のための鉄道敷設計画が各所で盛んに進められ、さらに鉄道のみならず発電所やダムなどの建設事業がいくつも同時進行していました。当時の労働者不足はかなり深刻で、周旋屋と呼ばれる斡旋業者が暗躍し、半ば騙されて人身売買のように連れてこられた人間も少なくなかったと伝えられています。

 定山渓鉄道の建設に際しては、建設請負業者のさらに下請負のいくつかの業者の下にタコ部屋が存在。そこに集められた工夫は軟禁状態のまま毎日強制労働に従事させられ、それらの現場はわかっているだけで簾舞から一の沢にかけて少なくとも四か所、やはり難工事とされた区間に点在していました。連れて

こられてすぐに、早朝から起こされ立ち食いの朝飯もそこそこに現場へ連れていかれ、陽が沈んで暗くなるまで力仕事に追われます。休めるのは食事の時か、掘立小屋のタコ部屋に戻った時だけ。風呂に入れることもなく顔も洗えないという、過酷な労働を強いられていた、といいます。逃げようとして捕まり体罰を受け、あるいは死に至ったというケースも少なくなかったそうです。

 

 沿線には同じ時期に簾舞発電所と小金湯の堰堤工事、一の沢ダムと発電所工事、さらには豊羽鉱山石山選鉱場建設などが行われていますが、これらにも同様のタコ部屋労働が存在していたことが知られています。驚くべきは、戦後、真駒内に進駐軍の『キャンプ・クロフォード』が建設されるにあたっても一部にタコ部屋労働があったことで、後にそれを知ったGHQによって解散させられ、タコ部屋労働に終止符が打たれた、という記録でしょうか。

 今となっては当時を知る人も少なくなり、歴史の裏側に埋もれたその実態と真実を細かく知ることは難しくなっています。少なくとも定山渓鉄道半世紀の歴史と沿線の発展の陰には、彼らの過酷な強制労働が存在していたことも、沿線の郷土を知るうえで覚えておくべきではないかと思うのです。

 

※出典 『さっぽろのタコ部屋 ―このままでは殺される―』(札幌郷土を掘る会)

 

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