定山渓鉄道資料集
【定山渓鉄道沿線百話 その四五 「石山軌道」】
「石山軌道」をご存知ですか?
これは、明治後期に札幌区と石山の砕石所との間に開業された札幌石材馬車鉄道のことではありません。時は太平洋戦争の暗い影に包まれはじめた昭和一〇年代。千歳飛行場の滑走路強化のため対岸の硬石山から砕石された石材(=硬石)の大量輸送を求められます。石山の軟石同様、硬石も明治初期に発見され、道路の敷石や建物の基礎などに活用されていました。馬鉄が開業した際には、札幌軟石だけではなくこの硬石も市内へ馬鉄によって運搬していましたが、定山渓鉄道開業後に馬鉄は廃止となり、その後は橋、または渡船を利用して石切山停車場へ運ばれていましたが、時代の要請によってかつてない大量の硬石を運び出さなければならない必要性に迫られたわけです。
そこで、石切山停車場の貨物積み込みのための引き込み線より先、豊平川に新たに架橋して線路を敷設、採石場より直接貨車によってこれを運搬する方法がとられることになりました。昭和二五年に国土地理院より発行された二万五千分一地形図『石山』には、この引き込み線の様子がそのまま描かれています。(前項・【その44 馬鉄と線路付け替えの謎】)この地形図によれば硬石山より弧を描きながら豊平川にいくつかの橋を渡り、対岸の石切山停車場へと見慣れた白黒の鉄道線ラインが描かれてますが、そのまま受け取ればこれは、定山渓鉄道線に直通する引込線であると解釈できます。
ところが、長いこと眠っていたある図面が偶然見つかり、実はこの引き込み線が定山渓鉄道のものではなかったことがわかったのです。
見つかった図面には「石山軌道」と書かれており、線路平面図、線路断面図、そして豊平川に架橋された大小四つの橋梁の設計図面で、その平面図ルートから前述の地形図に記載された硬石山への引き込み線と同一のものであることは明らか。定山渓鉄道の引き込み線の延長ではなく単独の軌道だったわけです。残念ながら図面が作成された日時や施工者の情報が記されていないため、いつ誰が敷設したかといった正確な情報はわからないのですが、断面図上から読み取れる軌間のサイズが「三.0」(=フィート表記であれば約九00ミリメートル?)であることから、定山渓鉄道とはゲージが違う専用軌道であったことだけはわかります。果たしてこの石山軌道の上を、どのような形のトロッコが走っていたのでしょうか?動力
車はあったのでしょうか?それとも人力で?想像は尽きませんが、千歳飛行場の滑走路へと運ばれる大量の粉砕された硬石が、次々と石切山停車場の引き込み線へと運ばれていたのでしょう。石山を古くから知る方より「子どものころ、石切山駅には二本の引き込み線があり、一本は駅の奥にあった木工所まで、もう一本は枠のついた台車が二~三台停めてあり、石を積んでいた」との話を聞きました。おそらくその一本に隣接して石山軌道線が敷かれ、軟石だけではなく硬石の積み込みも行っていたのではないかと想像しています。
オリジナルの図面は長い時間にわたって丸められたままどこかの片隅に保管され続け、持ち主の家族がたまたまそれを見つけた、ということなのですが、トレーシングペーパーは黄色く変色して硬化しところどころボロボロになりながらも、それは当時の黒インクで直筆されたもので、十中八九、当時のものであると考えられます。写真は関係者によってコピーされたものですが、保存が思いのほか良かったためかなりきれいに図面の隅々まで映し出されています。
こうして、すでに埋もれてしまった事実もおそらくはたくさんあるでしょう。ひとつひとつのエピソードは当事者以外は無関係のことでも、後の時代に大きくその存在が影響することも少なくありません。こうして突然世に出てきた「石山軌道」の図面は、まだまだ埋もれて日の目を見ないさまざまな遺構や資料がたくさんあるということを、訴えかけてきているような気がしてなりません。
※カットは原図のコピーを簡易に複写したもの。上段左より平面図、断面図の一部、石切山停車場付近の平面図、下段右より第二橋梁設計図、第四橋梁設計図、そして線路断面図。この当時の豊平川は川幅が広く、中州を分けて四つの橋梁が架けられた。この部分、地形図では大雑把に一つの橋梁として描かれていた。
※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。