定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その四四

 「石山馬鉄と線路付替えの謎」】

 

 開業からおよそ一二年が経過し、定山渓温泉の発展とともに鉄道事業も文字通り軌道に乗ってきた昭和四年一〇月、定山渓鉄道は全線電化という大躍進を遂げます。それに合わせて豊平停車場や定山渓停車場が新築移設されるなどいくつかの変化が見られました。石切山停車場もその一つで、前後の線路も電化に伴って移動していました。

 現存する定山渓鉄道の建造物遺構としては唯一の石切山停車場駅舎は現在、石山振興会館として保存再利用されていますが、建物そのものは昭和二四年ごろに新築されたもので、この場所としては二代目駅舎ということになります。しかし、実は電化以前の開業当初に設けられた初代の石切山停車場は現在のこの場所ではなく、もっと南側にあったのです。

 定山渓へ向かって線路は、石山陸橋をくぐると右へ左へS字カーブを描きながら急坂を下ったのち、直進して現在の石山停車場ー石山振興会館を通っていたわけですが、開業当時はそれより手前、左へ進路を変えて現在の石山一条二丁目交差点付近で平岸通を斜めに横切り、さらに渡った先からは緩く右へ転じながら妙現寺敷地の南側を通過し、石山二条三丁目付近を右カーブを描いたまま進んで再び平岸通を渡り、石山小学校敷地へと進んでいました。その中間付近に初代の石切山停車場が置かれたのです。二度も目抜き通りをわざわざ横切り、なぜこのような曲線にしたのでしょう?

 

 定山渓鉄道が最終的に認可を受けたのは大正五年五月一八日。この時点ではまだ札幌石材馬車鉄道が札幌市街から石切場までの馬鉄を運行していました。札幌軟石を運ぶ目的で明治四二年に開業していましたが、定山渓温泉までの唯一の交通機関だったこともあって旅客も取り扱っていました。その馬車鉄道の取締役であった助川貞二郎には定山渓鉄道の立ち上げ段階で関わっていた事実があります。建設の話が持ち上がった大正二年当時、松田学(定山渓鉄道初代社長)を含む発起人らの資本金集めの際、彼は大口出資を持ち掛けられていました。出資の条件として石山馬車鉄道の南二条西一一丁目~石山間を含む大通起点を提案したのですが、しかしこれは実現しませんでした。当然のことながら助川貞二郎からの出資も実現せず、また時期を前後して豊平川の大出水のために苗穂起点の断念へと歴史は流れます。

 その後に豊平廻りの新ルートで鉄道建設が始まるのですが、お気づきのように、そのままだと石切山付近ではすでに敷設されている馬車鉄道と平面交差することになります。当然この件は定山渓鉄道株式会社と札幌石材馬車鉄道との間で何がしかの交渉がもたれていたことは想像に難くありませんが、一方で助

川貞二郎は社名を札幌電気軌道株式会社と変更、二年後に開催が迫っていた『開道五〇年記念北海道博覧会』に合わせて馬鉄の市内線を電車化すべく準備を進めていました。そして大正七年、春の雪解けとともに始められ半年にも満たない馬鉄から路面電車への更新工事は、第一次大戦のあおりを受けてレールや電車が予定通りに到着しないなどと難航するも、定山渓鉄道開業に先んじた八月一二日に、札幌駅前~中島公園を含む三系統の運行で路面電車が誕生しました。もしかするとこの時点ですでに「郊外線」として区別されていた南二条~石山間の馬鉄運行に見切りをつけ、本来の目的であった石山の石材輸送を早晩開業するであろう定山渓鉄道へ譲る意志があったのかもしれません。

 定山渓鉄道の計画路線が決定した大正五年当時の石切山に話を戻すと、札幌石材馬車鉄道の線路は豊平川の対岸より現在の石切山停車場裏手、石山北公園付近の河原に架けられた専用橋を渡って石山六号線付近を通って、切羽へと登っていました(現在の石山緑地)。大正七年に発行された地形図によれば、現在の平岸通(旧国道二三〇号線、当時は本願寺道路)のすぐ北側は豊平川の河岸が迫り、現在の石山北公園(石切山停車場構内)は以前は河原だったことが想像できます。大正二年の大水害の影響も少なからずあったでしょう。そのためわざわざ目抜き通りを二度に渡って横断し、切羽に近いところで停車場を設け、引き込み線を設けることで石材の集積地としようとしたのではないかとも思えます。あるいは馬鉄存続を考慮し、札幌方面へ石材運搬を継続させるための便宜を図ったのではないか、という可能性でもあるのでしょうか…

 ともかく、歴史的には定山渓鉄道開業後にはこの石山馬鉄郊外線も免許を失効し、その営業を廃止してしまいました。以後、札幌軟石の輸送は定山渓鉄道が中心となり、その量も年々増えていきます。

 さて、線路と駅舎が移設され、目抜き通りを二度渡らずに済む理想的な線形となったのは冒頭で触れた昭和四年の電化に際してですが、それと同時におそらくは大幅な土木工事を経て川岸が埋め立てられ、線路用地を確保したのではないかと、地形図から想像しています。さらに昭和一四年ごろともなると対岸の硬石山からの石材運搬のため架橋し引き込み線が敷設され、石材集積地として広大な敷地が設けられました。

 

※カットは上左が昭和二八年二月国土地理院発行二万五千分一『石山』、上右が大正七年一一月大日本帝国陸地測量部(国土地理院)発行二万五千分一『石山』。それぞれ石切山停車場部分を中心に拡大。下左は開業直後の線路が記された希少な地図で、大正一三年に発行された二万五千分一「札幌近郊」図の石山付近拡大。下右はほぼ同地点を捉えた昭和二二年ごろの航空写真。赤●が新旧駅舎の位置を示すが、旧駅舎位置は推定。

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