定山渓鉄道資料集
【定山渓鉄道沿線百話 その四三 「ガンケ」】
定山渓鉄道沿線には、車窓からの景色が楽しめる実に数多くの景勝地がありました。
昭和一〇年代、豊平から定山渓行の電車に乗ると、札幌の街並みを遠望しながら田んぼとリンゴ畑が広がる平岸の丘上を進みます。天神山を越えると真駒内種畜場が広がり、藻岩山を背景に牛の放牧を眺めるのどかな景色がしばらく続きます。そして石山陸橋を越えると白い岩肌をさらす石切場がひときわ目立つ独特な町なみへと入るのですが、現在はそのほとんどが過去の情景となってしまいました。
しかし当時の車窓からの眺めを今もそのままに留める景色が、まだわずかながら残されています。現在、石山一条五丁目付近の豊平川の河畔に立つと、対岸に屹立する赤味がかった柱状節理が望めますが、ここは「ガンケ」と呼ばれた名所のひとつでした。石切山停車場を出た電車はやや北へ変針して豊平川へ近づきますが、およそ標高一二〇~一三〇メートルの河岸段丘面の縁に沿って線路が敷かれていたことが地形図から判別できます。川面より段丘面に高さがあるため、宅地開発が進められる以前までは、車窓よりこの柱状節理の連なるダイナミックな断崖が手に取るように眺められたものと思われます。ちなみに「ガンケ」とは崖が訛って伝えられた言葉でしたが、その言葉の中には開拓の苦難の歴史も込められていました。
石山は札幌開拓期より、支笏火山によってできたとされる凝灰岩石層からの石材切り出し(札幌軟石)が行われたことで知られていますが、石山河岸段丘と豊平川を境に左岸側では標高三七〇メートルの硬石山がせり出し、こちらも軟石切出しとほぼ時期を同じくして(明治九年ごろ)砕石が始まりました。山の名の通り硬岩を切出し、今でも砕石が続けられて道路の敷石、建築物の土台などに利用されています。しかしその結果として硬石山東側の山体は大きく削られ、定鉄電車から見えたであろう当時の景色からは著しくその形が変わってしまいました。一方で「ガンケ」の方はその硬石山の南端にあたり、明治開拓期から見られた荒々しい断崖のイメージを残しています。
現在、この「ガンケ」を豊平川対岸より眺めると、中腹に一本の筋が横切っているのを確認できます。コンクリートと石積みの壁があるため一目で人工造形物であることが容易に想像できるのですが、実は昭和五〇年代までここには道路が通じていました。その歴史は古く、篠路屯田給与地であった白川の本格的な開墾を行うために、篠路屯田兵の小村亀十郎が中心となってこの崖の中腹へ道路開削を始めた、明治三一年一二月にさかのぼります。険しい崖の区間はわずか五〇〇メートルほどの距離でしたが、それまでは崖下を川の岩場を伝って歩くよりほかはなく、石山、重吾ノ沢、野ノ沢(現藤野)地区とは対照的に白川地区の開拓を遅らせていた障害となっていました。しかし、小村亀十郎のリーダーシップと入植を希望する人たちの熱意と努力により、それからわずか三か月、しかも積雪期だった翌年二月に幅員二.七メートルの白川道路が完成。馬車の往来が可能となります。その後はこの道を通じて続々と入植者があり、対岸に定山渓鉄道が開業する大正七年ごろにはほぼ開拓がひと段落して小部落が形成され、やがて南に開けたその地の利から優良農産物を産出する農村地帯として発展していきます。そして札幌へ農産物を運び出すため、この白川道路が大きく貢献しました。昭和二〇年代以降には、レジャーブームの広がりも追い風となって定鉄ハイキングコースの一部にもなり、さらに鉄道廃止後は札幌市が指定する自然遊歩道として利用されることになります。しかし、その地形的条件からしばしば落石が発生することと、昭和五一年には南沢側から市営し尿処理場を経由して直接白川へ入る市道が整備された結果、この歴史ある白川道路はとうとう利用廃止となり、現在は通行が禁止されてしまいました。
※カットは左上より時計回りに「ガンケ」を背景に石山~藤ノ沢間を走る定鉄電車(札幌公文書館所蔵)。落石が激しい現在の「ガンケ」。国土地理院発行五万分一図『石切山』(昭和一〇年修正)より当該箇所拡大。この当時は立派な幹線道路。そして、現在の石山一条九丁目付近の線路跡から見たガンケ。
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