定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その四  「べこの踏切」】

 

 定山渓鉄道が開業した大正七年当時、真駒内には真駒内種畜場と呼ばれる畜産試験場がありました。明治の開拓期に北海道開拓使に雇われたアメリカ人エドウィン・ダンがこの場所に牧牛場を開いたのが最初で、その後、家畜全般の改良、育成機関として戦前まで続いていました。

 

 鉄道建設が具体的になった頃、予定していた路線が牧場の中を通ることを反対されたために変更を余儀なくされ、ちょうど種畜場敷地西側の平地と東側の桜山を含む丘陵地の境に線路が敷かれることになりました。ところがこの東側一帯も実は種畜場の自然放牧地だったため、当然これを線路が横切ることになります。牛との接触事故を防ぐ必要に迫られた結果、踏切が設置されることになったのです。

 踏切を示す柵が設けられ、線路の間に踏切板も敷かれた上に「汽車に注意すべし」という看板まで立てられたそうですが、もちろんここは種畜場の中で近くには踏切を利用すべき住民もなく、朝夕、放牧地と牛舎を行き来するたくさんの牛と牛追いの人が通るだけ。保線の工夫が「べこの踏切」と名付けたことから、後々そう呼ばれるようになりました。

 

 「牛は物おじしない動物、電車の警笛くらいには少しも驚かない。電車の方を横目でにらみながら悠然と踏切を渡るのを牧夫が一生懸命せきたてて、牛の尻にむちをふるっているのを停車した電車から眺めたこともあった」(桐原酉次 談 『郷土史真駒内』より引用)

 

 今ならクレーム殺到な事態だと容易に察することができますが、この当時、なんとのどかな時代だったのでしょう!

 

 その場所は、現在の真駒内南町三丁目付近でじょうてつバスの待機場の北側にあったものと推測しています。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。

右は昭和二三年(米軍撮影)、左は平成二〇年撮影(国土地理院)の同地点。

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