定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その三七 「簾舞停車場」】

 

 簾舞停車場は、大正七年一〇月一七日開業時より開設された駅で、起点の白石駅より定山渓停車場までのほぼ中間地点にあることから上下列車行き違いのために島ホームと側線が設けられました。蒸気機関車のための給炭水施設も置かれ、束の間準備を整えた後、この先定山渓まで続く急こう配、急曲線の難所へと挑んでいったのです。

 

 簾舞(みすまい)は、アイヌ語地名「ニセイ・オマプ(nisei-oma-p)」が語源と言われ、その意味は「断崖絶壁・ある・もの」。現在は撤去された旧御料橋付近は柱状節理が発達して箱状の渓谷となっており、藻岩ダム上流の簾舞川合流付近まで連なっていた地形的特徴を指す言葉と伝えられています。それが訛ってミソマップと呼ばれるようになりますが、明治五年に開拓使が簾舞と呼称するように定めました。その前年、東本願寺の一行による有珠新道開削によりこの簾舞にも道路が通じ(本願寺道路)、ここに通行屋が設けられることとなります。開拓使は当時函館の通行屋にて屋守をしていた黒岩清五郎に簾舞通行屋の屋守を命じました。この地の最初の定住者ということになります。

 その後、立ち寄る旅人への便宜を図りながらも黒岩家は積極的に簾舞の開墾を続け、部落の下地がつくられていきます。大きく変わったのは明治二一年の札幌農学校第四農場開設でした。小作入植者が続々と増え人の往来も多くなっていきます。札幌農学校による農場開設は、その後の簾舞の農業発展に大きく影響を与えました。近代的な農業技術の導入により品種改良や新種導入など北海道の他の地域よりも率先して行われた結果、明治の終わりごろには簾舞に多くの水田が広がり、米をはじめ主要な農産物はほとんど産出できるようになります。とりわけ「簾舞大豆」と称される大豆は全国的にも有名となりました。

 その簾舞の優れた農産物を送り出す立役者となったのが定山渓鉄道でした。開業とほぼ時を同じくして簾舞に農業協同組合が発足、簾舞停車場前に事務所が置かれます。「簾舞大豆」をはじめ馬鈴薯や簾舞イチゴ、リンゴ、有名となる除虫菊など、昭和の初めにかけて数多くの農産物が定山渓鉄道を介して全国へ送り出されました。

 一方で、鉄道建設工事真っ最中の大正六年ごろには簾舞対岸の砥山に、豊平川では定山渓発電所に次いでふたつ目となる簾舞発電所の建設が始まっていました。ちょうど簾舞停車場を貫くように小路が設けられ、川には現在の砥山橋の元となる工事用の吊り橋が架けられます。このことから発電所建設資材運搬にも鉄道が利用されていたと思われます。この吊り橋の架橋は砥山部落の住民にとっても朗報でしたが、発電所建設は住民の労働力提供や労働者の流入で旅館が大繁盛するなど簾舞に好景気をもたらしました。大正九年の発電開始後は集落にも電気の恩恵がもたらされ、簾舞停車場の待合にも電燈が灯り、後に電球をモチーフにした「撥電もなか」が販売されて話題になっていたそうです。

 

 停車場中心は起点より一七キロ四四〇メートル。ホーム延長六五.五メートルでほぼ電車四両分弱ほど。開業当時の写真ではホームは途切れているようにも見えるので、昭和四年の電化に際して延長された可能性があります。北側の側線は昭和に入って設けられた木工場の土場に面していましたので、原木積み込みに側線が利用されていたと思われます。鉄道営業廃止後は比較的すぐに、停車場全体がこの工場敷地に利用されます。近年まで営業していたようですが、現在は撤退して簾舞停車場跡地はほぼ全面的に再開発されつつあります。一〇年程前には駅舎の建っていたあたりに土台の一部と思われるわずかな痕跡が見られたのですが、現在はわからなくなってしまいました。しかし、構内はずれの線路跡地には架線柱や信号機の土台部分が今でも残されています。

 

※カットは上から簾舞停車場構内平面図(昭和三九年当時)。左から開業直後の簾舞停車場と廃止後の様子。簾舞発電所と現在の跡地。場内信号柱の跡と、明治四〇年ごろの簾舞通行屋(黒岩家住宅)。

 

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