定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その三六 「八剣山道路」】

 

 定山渓鉄道沿線には風光明媚な景観が数多く連なるのですが、中でも車窓からの眺めがもっとも際立っていたのは、簾舞停車場から豊滝、滝の沢停車場までの区間です。

 簾舞を出た定山渓行から右側の車窓には、すぐ眼下に豊平川が迫り、そして対岸すぐ目の前に標高四九八メートルの八剣山が迫ります。まるで八つの剣を天空へ突き出しているような様相から、いつともなく名付けられた八剣山をぐるりと回り込むように電車は走り、刻々と変化するその剣の姿を眺められるのは定山渓鉄道ならではの醍醐味でした。これは、鉄道末期に国道が改良されてもなお、クルマからは決して体感できないダイナミックなビューポイントでもあったのです(その後の取材により、「八剣山」と名付けたのは定山渓鉄道株式会社であったとの説があります)。

 

 鉄道建設と保線に関してはこの区間が最大の難所のひとつだったことは以前の記事で取り上げたとおり(その三四 曲線表の空欄)ですが、今回は鉄道からちょっと離れてこの八剣山に設けられた路について触れておきたいと思います。

 鉄道建設がまだ具体化する以前の明治三二年秋、簾舞に設置されていた札幌農学校第四農場の対岸にあたる砥山地区に入植が始まります。御料地へ小作人を入れて本格的に開墾を始めた御料農場のひとつとして砥山部落が形成されましたが、その部落を上流側の上砥山、下流側の下砥山と地区を真っ二つに分けていたのがこの八剣山の存在でした。この当時、豊平川を渡る橋は下砥山地区に近い下流の御料橋(後の東簾舞停留場下に架かる橋)よりほかはなく、上流側、後の上砥山地区に入植した一〇名ほどの開拓農家はその当初より、八剣山の裏手の鞍部に踏み分け道を上り下りしての移動を強いられていました。農地としては優れていたため雑穀を中心に収穫量は多かったのですが、交通の便が悪く簾舞までの運搬に難儀していたことから山腹に岩盤を削り滑落の危険と隣り合わせの難工事の末、ようやく馬が通れるほどの八剣山道路が拓かれたのです。

 距離にすればおよそ三〇〇メートル足らず、しかしすぐ足元にはおよそ五〇メートルの断崖と豊平川の激流、見上げれば恐竜の肌を思わせる安山岩の連なりが続き、しばしば落石が伴う危険な路ではありました。馬が通れる路ができたことでそれまでより便利になったことは確かでしたが、足を踏み外して荷物ごと転落する事故もたびたびあったそうです。このため交通安全を祈願しての馬頭観音が建立されました。

 さて、大正七年一〇月一七日。この八剣山道路の対岸に定山渓鉄道が開通しました。

 車窓からの八剣山の眺めが壮観だったように、もうもうと煙を吐く機関車がマッチ箱のような客車をけん引しながら対岸を過ぎてゆく様子を、この八剣山道路からも手に取るように眺められたはずです。長い期間、上砥山地区と簾舞を結ぶ生活道路だったこの路も、昭和に入って架けられた上砥山橋にその座を譲ったために通る人も減りましたが、昭和二〇年代半ばのレジャーブームが再びこの路を甦らせます。定山渓鉄道株式会社が、藤の沢から錦橋までの豊平川左岸に利用客増を期待してのハイキングコース整備を行います。その一部にこの八剣山道路も組み込まれ、行楽シーズンごとに多くのハイカーがここを訪れるようになりました。頼りない足元に肝を冷やしながらも屈曲する豊平川のスケールのある景色と対岸を、過ぎる定鉄電車を眺めながら歩いたに違いありません。

 

 昭和四四年一〇月いっぱいで鉄道は営業を終えましたが、八剣山道路はその後わずかな期間、札幌市の自然歩道として引き継がれました。しかし、度重なる落石や道路の一部が崩落するに至りほどなくして廃道となります。現在はおよそ五〇メートルほどのコンクリート舗装がその面影を残すのみとなっていますが、その入り口付近に立っても今なお、当時とほとんど変わらない景色が広がっています。

 

※八剣山道路は現在、通行止めとなっています。

※カットは昭和三五年ごろに旧国道板割沢付近より眺めた豊滝停留場付近の遠景(はせがわまさとし氏撮影)。八剣山道路が見える。この当時は線路際に樹木が少なく対岸の見通しは良かった。そして左が平成二一年撮影の八剣山道路と八剣山登山口の馬頭観音碑。

 

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