定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その三五 「モ100形の変遷」】

 

 大正七年一〇月一七日に開業した定山渓鉄道は、昭和四年一〇月二五日、東札幌停車場~定山渓停車場間の延長二七キロ一八〇メートルを電化しました。それまで二時間以上かかっていた所要時間を約五〇分に縮め、その後の定山渓温泉への行楽客輸送に大いに貢献することとなったのは歴史に明らかです。この「定鉄電車」が北海道では最初の電車だったと思っている方も少なくないようですが、実はこれ以前、旭川電気軌道(昭和二年二月より電車運行)や洞爺湖電気鉄道(昭和四年一月開業)が先に電車を走らせていました。もっとも前者は一五.五キロ、後者は八.八キロと営業区間が短く、ともに直流六〇〇ボルトで二軸の小型車両を使用したものでした。電化区間が両者よりも長く二軸ボギーの大型高速電車を走らせた定山渓鉄道の方がアピール度が抜群だったためか「北海道初の電車」という印象を与えていたのかもしれません。ともかく定山渓鉄道の電化は当時、全国的にも話題となっていたのは確かです。

 ちなみに用途廃止となって久しいJR北海道の711系、いわゆる「赤電車」は、昭和四三年秋の国鉄函館本線、小樽~滝川間の電化開業を目指して前年に初登場しました。一部報道で「北海道最初の電車」と紹介されていたようですが、正確には「国鉄として北海道で最初の電車」であり「関東以北で最初の交流専用電車」ということになります。

 

 全線電化後、最初に入線した「定鉄電車」は新潟鉄工所製「モ100形」四両で、半鋼製車体に非貫通型の両運転台、ロングシートで定員100名(座席40名)で、大型のパンタグラフを持つ全長15メートルの角ばった電車は当時の首都圏を走っていた通勤用省線電車そのもののデザインで、艶のあるフェザントグリーンに染められた存在感たっぷりのものでした。積雪期のある北海道ならではのアイデアとして、当初から高ギア比を持たせてトルクを稼ぎ、多少の積雪を跳ね除ける能力を持つことも注目されました。その後続々と新造、あるいは他線区からの転入などで数多くの電車が入線しましたが、この「モ100形」は定山渓鉄道在籍車両の中でももっとも長く生き延びた電車でした。

 昭和二四年以降、六扉の半剛製通勤型電車「モ800形」二両を皮切りに、「モ1000形(ク1010形と同時に)」、私鉄では珍しい二等客車(現グリーン車相当)「モロ1100形(クロ1110形と同時に)」、「モハ1200形(クハ1210形と同時に)」などの新造電車が続々と登場します。それまで活躍してきた「モ100形」も製造から二〇年以上を経て痛みが目立ってきたため、いよいよ車体の更新改造を受けることとなりました。動力関係と台車など床下はそのままに、新型車「モハ1200形」の大型全面二枚窓デザインを踏襲した近代的な鋼製ボディを載せて貫通型片運転台二両固定編成「モハ2100形」となったのです。まず昭和三〇年一〇月にモ101+モ104がモハ2101+モハ2102へ、続けて昭和三一年五月にモ102+モ103がモハ2103+モハ2104

へとそれぞれ生まれ変わります。このころ会社としても最盛期を迎えつつあり、多客期の快速や急行を中心に運用され定山渓温泉へ多くの温泉客を送迎しました。そして昭和四四年一〇月三一日の営業廃止当日には、花のデコレーションをまとい「さよなら電車」として最後まで走り続けたのです。

 

 さて、この「モ2100形」への更新改造によって「モ100形」の床上部分など余剰品が出ているのですが、その転用先についていくつか情報をいただきましたので最後に触れておきます。

 冒頭で登場した旭川電気軌道で、昭和三一年に入線したモハ501はこの「モ100形」の余剰となった車体部分を流用して製造されています。ただし運転台のある車体端部分と床下機器や台車は新造のためほとんど新車同然であり、車両竣工図表にも特に記載されていないため今の時点で元の車体の番号は不明となっています。

 同様に余剰車体を利用したケースをもうひとつ。弘南鉄道が電化された際に南海鉄道より譲渡されたデニホ10の鋼製化改造のため、この「モ100形」モ101の余剰車体が利用されました。もともと片運転台だったデニホ10がこの時に両運転台化されていますので、おそらく運転台制御機器も流用されていたと思われます。モハ2210と改番して入線しましたがわずか六年後、架線電圧変更の際に整理対象となって昭和三六年六月に廃車、九月に日立電鉄へ譲渡されます。日立電鉄入線後はその二年後に車体の中間扉増設の改造を受け、さらに昭和四六年八月には窓がアルミサッシ化されるなどの車体更新が加えられました。その一方で元車両だった「モハ2100形」は定山渓鉄道廃止を受けて一足先に廃車となりましたが、こちらはその後も走り続け昭和五四年五月に廃車を迎えています。

 最後は、定山渓鉄道に所属する車両に受け継がれたケースです。車体更新により生まれ変わった「モハ2100形」は片運転台で二両固定編成でした。これにより、もともと両運転台だった「モ100形」から運転台や制御関係機器が余剰となっていたわけですが、このうちふたつが付随客車「サハ600形」に取り付け改造を施され「クハ600型」となりました。 電化から廃止までの四〇年間を走り続けたモ100形電車は、文字通り定山渓鉄道の顔であり、その後の「定鉄電車」という代名詞を生み出した歴史的車両でもあったのです。

 

※監修は澤内一晃氏

※カットは車両竣工図表で、右上が定山渓鉄道「モ100形」。更新による余剰車体は左上の旭川電気軌道モ501と、左下の日立電鉄モハ2210へと受け継がれた。右下は、同様に余剰となった運転台と制御機器を自社改造で移植された定山渓鉄道「クハ600形」。同型は二両でいずれも片運転台だった。

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

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