定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その三〇 「一ノ沢停車場」】

 

 一ノ沢停車場(開業当初は一ノ澤)は、起点の東札幌停車場より二二キロ八四〇メートルのところに位置する駅で、大正一五年八月一五日に開駅しました。これより以前、簾舞より豊滝付近までに開設された札幌農大第四農場や、近隣の御料地への小作人入植による御料農場などの開墾が進んで、簾舞地区を中心に沿線にも入植者が増えつつある状況にありました。停車場ができた当時には一の沢より小金湯にかけての豊平川右岸沿いに農村地帯が形成されて田畑が広がっていたものと想像できます。その住民の利便のために開駅につながったとも考えられますが、実はもうひとつの大きな理由がありました。それは、後に藻岩発電所ができるまでは、札幌近郊ではもっとも発電量の大きかった一の沢発電所の建設でした。

 

 この一の沢発電所は、札幌水力電気株式会社によって計画された豊平川水系の水力発電所で、定山渓、簾舞に次ぐ三番目であることから別名、豊平川第三発電所とも言われました。崖上から水面近くまでに断崖に張り付くように建設された地上六階地下二階の鉄筋コンクリートの近代的建物で、同時に建設された上流、錦橋付近の一の沢ダムより取水、最大出力四〇〇〇キロワットを誇る当時としては大型発電施設でした。また建物が近代的なだけではなくエレベーターが備えられていたことも話題となりました。その建設が開始されたのは大正一三年。この時すでに営業していた定山渓鉄道線が現場すぐそばを通過することから、工事のために資材積み下ろしの便宜が図られることとなります。余談ですがこの札幌水力電気は一の沢発電所が送電を開始したこの年、王子製紙へ吸収合併され、さらに発電部門を分けて北海水力電気株式会社となりました。その二年後に定山渓鉄道全線電化に際しての出資へとつながるのですが、下地がすでにこの時にはできていたことになります。

 

 昭和三九年の駅平面図上では単線で片面ホーム、こじんまりした待合小屋があるだけの無人駅ですが、開業前は資材積み下ろしのための岐線が設けられていました。現在は廃止されてからすでに半世紀近くが過ぎて、停車場周辺は雑草や木々に覆われて近寄り難い状況となってしまっていますが、それらを除けば旧道との間に広がる広い空間は駅前広場か土場を思わせる雰囲気が漂っています。当時はここに倉庫、現場詰所などさまざまな建物が並び、導水路建設が進められていた国道を挟んだ山側まで広がっていました。その点からもおそらく建設当初より工夫の輸送などですでに乗降のための設備が整えられていたと思われます。

 さて、駅平面図を眺めていて実は疑問がふと浮かびました。

 一の沢発電所建設が目的で置かれた駅であるならば、実際に発電所が建設されたのは一の沢川を挟んだ対岸なのですが、なぜそちら側に岐線を設けなかったのか?

 

 そのヒントは路線縦断面図にありました。図面上、この停車場を挟んだ前後約一三〇メートル区間だけが線路が水平になっています。推測すると、対岸からは最大二〇パーミルの上り勾配が始まるため、貨車を駐留させる都合上やむを得ずこの位置に設けざるを得なかった、ということかもしれません。対岸の現場へは国道の一の沢橋を通して運ばれたのでしょう。当時は現在の国道の下、水道橋が架かっているところが旧国道の一の沢橋でした。

 

 そしてもう一つの疑問。なぜ「停車場」なのか?

 定山渓鉄道の中での定義的な意味合いとしては、駅員配置で列車交換業務を行う駅(閉塞端)が停車場、ということだったはずですが、この一ノ沢停車場に関しては発電所が竣工し岐線が撤去されても、鉄道が廃止されるまで停車場のままでした。

 推測の域を出ませんが、停留場開業前に発電所建設のため一時的に岐線は設けられたものの、竣工後に発電所職員住宅などが近隣に建てられたためそのまま停留場として開業。ところが昭和二九年の洞爺丸台風による倒木処理により岐線が利用されたか、あるいは新設されて木材積み込みが行われることになります。一の沢停車場構内のポイント操作は錦橋停車場~滝ノ沢停車場間に使用するタブレットを使用し動作させるものであったとのことなので、広い意味では錦橋の構内の一部、とされ、結局「停車場」としての平面図が描かれた五年後に廃止を迎えるまで続いた、ということだったのかもしれません。

 

※カットは、一ノ沢停車場平面図(昭和三九年当時)、下は周辺の航空写真と一の沢発電所の全景。平面図と航空写真はともに右が定山渓方。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

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