定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その二九 「つつじ谷と百松橋」】

 

 線路は錦橋停車場を出て豊平方面へ向かうと、一の沢渓谷と呼ばれる両岸断崖の豊平川に沿って崖の上を走ります。特に、現在は国道が錦トンネルを通している山塊が川に張り出す場所では、昭和三〇年代半ばまで断崖絶壁の上のわずかなスペースを鉄道と旧国道が背中合わせで通り、しかもクランク状に幅員三.六六メートルという狭い踏切が設けられていた場所でした。

 この箇所、時代的には本願寺道路をルーツに持つ道路の方が先でしたが、鉄道建設にあたってはおそらく道路だった部分も一部利用しつつ、さらに山側を大幅に削って線路が通されたものと思われます。手掘りによるいかにも荒削りなその岩肌は現在も当時のままで見ることができます。さらにここから崖下の川を望むと対岸に落ちる神威沢川の滝が視界に入り、渓谷美が印象的な場所でもあります。当時、車窓からはこの迫力ある景色が手に取るように見られたことでしょう。鉄道はこの先一の沢川橋梁付近まで、豊平川と山とに挟まれた非常に幅の狭い平らな土地に道路と隣り合って走る区間が続いていました。

 

 この一の沢渓谷は古くから別名、つつじ谷と呼ばれていました。時期にはオレンジ色のつつじが両岸の崖に咲き乱れることからその名がついた、とされていますが、今ではバス停にその名残をとどめています。そのつつじ谷の景勝を眺めるのにもっとも適していた場所が百松橋でした。百松沢山や定山渓神威岳への登山道口として、また後に定山渓鉄道株式会社が設定したハイキングコースの一部にもなり、多くのハイカーがこの橋を利用していました。しかし、この橋の経緯についてはあまり資料がなく以前から私にとっては謎の多い橋なのでした。今回はこの百松橋にまつわる謎のいくつかをご紹介します。

 

 明治の中ごろに本願寺道路をもとに改良された幅二間ほどの旧国道は山側に、鉄道は豊平川の断崖そばにルートをとって建設されましたが、この時にはすでに百松橋は吊り橋として存在していました。おそらくは明治の頃より対岸の御料林で行われていた造材のために架けられたものと思われますが、最初に架けられたのがいつなのか明確な資料を見つけていません。しかし、大正七年の鉄道開通の前後で一度架け替えられている可能性があることを、当時の地形図の中に見つけました。大正九年発行と昭和二二年発行の地形図上では微妙に橋の表記位置がずれているのですが(地図上の緑矢印箇所)、現場ではこれを裏付けるように古い橋台が二つ並んでいる姿を今でも見ることができます。もっとも実際には地形図上から推測されるほどの距離は離れていないのも謎のひとつですが、写真でもわかるとおり、よく見るとこの二つの橋台はわずかに角度がずれており、少なくとも同一の橋のものではないと想像できます。

 ちなみに大正九年発行にもかかわらず七年に開通していた定山渓鉄道が描かれていないことに疑問は残るのですが、橋と道路の関係に戻りますと、この図にある百松橋は国道より直接T字分岐して渡っているように見えます。一方の昭和二二年図では一度鉄道を渡るためにわざわざ川下側に踏切が設けられているように道路が描かれています。なぜでしょう?

 推測ですが、おそらく大正から昭和にかけての道路の状況が関係しているものと思われます。道路の一の沢橋は現在の橋よりもかなり低いところに架けられてました。そこから急こう配を上がってきた道路面は、この百松橋(吊り橋)附近では当時の鉄道線よりも高い位置にあり、吊り橋とは高低差があったために一の沢側でその差のもっとも少なかった箇所に踏切を設けたのではないかと考えられます。当時の百松橋は馬車による往来があったと思われるので、もしかすると線路敷設によってさらに急こう配となることを避けて直接線路を超える踏切を設けなかった、ということかもしれません。

 一方で昭和三〇年代の鉄道断面図上では、現在の百松橋付近に設けられた幅員一.八メートルの踏切を頂点に一の沢側が二〇パーミルの上り、錦橋側は五パーミルの下り勾配が一五〇メートルほど続くように描かれています。このことは、昭和三〇年に架け替えられた現在の橋が、それまでの吊り橋や鉄道よりも高さを持ち上げたために、やむを得ず線路の路床を持ち上げた、という可能性も考えられますが実際はどうだったのでしょうか。昭和三〇年以降は、この踏切箇所も橋へのT字交差点となっています。

 

 百松橋についてもう少し触れておくと、先代の百松橋は「赤く彩られた鉄塔に吊られて美しく巨大な橋」として『郷土定山渓(昭和二九年)』に紹介されていますが、昭和二九年に通過した洞爺丸台風により大規模な風倒木が発生、その処理のためにトラックが走行可能な橋が必要となり、翌年、この吊り橋はその特徴だった「赤く彩られた」部分を橋床下の独特のアーチに姿を変えて、渓谷にとてもマッチした美しい橋のイメージを持った鋼製アーチ橋として生まれ変わります。「二ヒンジ・スパンドレル・プレースド・アーチ橋」と呼ばれる構造で、鋼製アーチ橋としては沿線では現在の錦橋の「二ヒンジ・ソリッド・リブ・アーチ橋」とともに貴重な存在となっています。

 

※カットは、左上から錦トンネル外側に残る線路と旧国道並走箇所、対岸に見える神威沢川の滝(平成一六年ごろ撮影)。続いて右、通称「つつじ谷」の名のとおり今でも見られる崖下のツツジ(百松橋より)。百松橋のアーチ。左下に、百松橋と並ぶ吊り橋時代の橋脚跡。そして、地形図の比較。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

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