定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その二八 「積雪対策」】

 

 大正七年一〇月一七日の開業当日は、雲一つない秋晴れだったと伝えられていますが、ほどなくして厳しい冬を迎えます。特に標高が高くなる真駒内付近からは積雪も多くなり、小金湯付近では厳冬期にはひと月の積雪量が二メートルに達することもあります。定山渓までの大半の区間は今も昔も変わらず豪雪地帯と云っても過言ではありません。この当時はまだ、定山渓鉄道には除雪のための車両を持っておらず、一日三往復程度のダイヤのためその間に降雪があるとスノープラウを付けただけの蒸気機関車を走らせて除雪していました。といっても所詮は牛除けに毛の生えた程度のもの。しばしば立ち往生することもあったようです。

 ある冬の日、定山渓方面へ向かっていた除雪のための蒸気機関車が、あまりの積雪のため精進川付近(澄川~真駒内間)まで来て蒸気が足りず動けなくなりました。このまま石切山までたどり着けば給水が受けられるのですが、降り積もる烈しい雪と出力不足のために前進も後退もままならなくなってしまいました。機関士は仕方なく助手とともに付近の農家からバケツを借りて精進川から水を汲み、高さ4メートルほどになるタンクへの補給を何度も繰り返して蒸気を上げることができ、なんとか助かった、という話が伝えられています(『郷土史すみかわ』より)。

 一度雪のために停まってしまえば鉄道工夫や付近の住民などを巻き込んでの人海戦術による救助作業に頼らざるを得ず、冬期間の運行は今からは思いもよらないほど苦労が多かったのではないでしょうか。

 

 昭和四年一〇月の全線電化完了と同時に旅客運行は電車化されますが、初めて入線したモ100型は非力ながら、当時としては例を見ない七五:一六、四.六九という高ギア比を持つ電動客車でした。車輪が1回転するのに必要なモーターの回転数、という意味ですが、当時のモーター性能では回転数の上限が低いため、一般的にはギア比が高くなると最高速度も低目になります。モーター出力にもよりますが、その後首都圏などで活躍した国鉄70系電車などは、それでも「線区の勾配区間に配慮した」上で二.八七だったので、いかに高ギア比だったのかがわかります。

 その理由は自身の低出力をカバーするため、あるいは急勾配に対応するためでもありましたが、実はこの積雪対策にありました。

 冬期間、モ100型電車に取り付けられるプラウにより、積雪四〇センチほどならば難なく跳ね除けながら前進できる高トルクの機動力は他の線区では類を見ないものでした。以後、定山渓鉄道のために新造されたモ200型、モ800型、モ1000型といった電車にもこの高ギア比が踏襲されました。特にモ800型以降はモーターも高出力化され、積雪期の運行効率アップにつながっていたと思われます。しかし一方で冬期定時運行のための根本的な対策が急務と、会社として認識していたことは確かでした。温泉客を運ぶだけではない産業鉄道としての一面がそこにありました。貨物列車は電車ではなかったからです。

 昭和一六年二月、すでに機動力のある電車を持ちながら、キ200型などの単線用ラッセル車を鉄道省より随時借入れ認可を得ています。必要に応じて除雪作業のためにレンタルしていたわけですが、これには昭和一四年に開通した錦橋~水松の沢(おんこのさわ)選鉱場間の豊羽鉱山専用線が、非電化区間であったこととも無関係ではないと思われます。軍需による採掘量の増大のため、ラッセル車借入れに合わせるようにC12、C56、および9040型などの蒸気機関車の借入認可を相次いで受けています。いわば国策に近い状況下にあり旅客よりも確実な貨物輸送に重点が置かれた結果、除雪作業はむしろ鉄道省からの通達によるもの、といった方が正しいのかもしれません。

 

 さらに戦後の昭和二二年にはキ600型(ロータリー)およびキ700型(広幅)除雪車が、鉄道省9600、C11、C56、C58型蒸気機関車や貨車とともに入線していますが、こちらはこの年に建設が開始された真駒内キャンプクロフォード建設のための貨物輸送および冬季の除雪が主な任務だったと思われます。この年、真駒内停車場よりキャンプクロフォードまで引き込み線が設けられました。

 

 そのような背景からいよいよ自社所有の必要に迫られたのか、定山渓鉄道として初めての除雪車増備が昭和二四年二月におこなわれました。国鉄より譲り受けたキ25、キ67がそれぞれキ1形ユキ2、ユキ1として入線しています。この二両のラッセル車は鉄道廃止直前まで在籍していましたが、昭和二九年にキャンプクロフォード返還、昭和三八年には豊羽鉱山専用線が石山選鉱場線とともに廃止となり、貨物列車がほとんど消滅した昭和四〇年代ともなると活躍の機会もそう多くはなかったのではないかと思われます。定山渓鉄道の営業廃止前年の昭和四三年九月にユキ1が、そして翌年一〇月三一日の営業廃止と同時にユキ2が廃車となりました。

 

※カットは上から、鉄道廃止記念乗車券に描かれたモ100型電車(表記はモハ100)と裏面に書かれた解説文。そして、定山渓鉄道が唯一所有していた2両のキ1形ラッセル車。

 

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