定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その二六 「錦橋の切通し」】

 

 大正七年一〇月一七日に白石~定山渓間で開業した定山渓鉄道は、その後の札幌の発展に大きく寄与しながら、昭和四四年一〇月三一日に惜しまれて廃止されました。その間、定山渓温泉のみならず沿線の景色も大きく移り変わっていきました。線路が敷かれていたところも、廃止からすでに半世紀近くの月日が流れて当時の面影を残す箇所はわずかになっています。その中でもアクセスが容易という点でもっとも当時の雰囲気を強く残しているのが、現国道白糸トンネル横の通称「錦橋の切通し」、あるいは「切割」と呼ばれる箇所です。

 

 鉄道建設が開始された大正六年当時、この場所は夕日岳の北側に張り出す尾根が豊平川へ突き出し、温泉へ至るには大きな障害となっていました。明治四年に開削された本願寺道路はこの尾根の外側に回り込んで路を造り通っていましたが、幅六尺足らずの急なカーブでは線路を敷くこともできず、熟慮の末、線路は尾根を削って切通しとすることになりました。同様の難工事は石山陸橋でも行われて当初はトンネルとして通過していましたが、なぜかこちらはトンネルではなく切通しで開業しています。同じ尾根に通された国道二三〇号線の白糸トンネル工事が始まったのは昭和三六年一〇月ですが、その時の調査報告によればこの尾根自体には風化帯を含むいくつかの小破砕帯があり、大断面トンネルでは湧水崩落の危険がある、ということだったので、当時の調査ですでにこれを知ってトンネル化を断念していた可能性もあります。もっとも、半径一六〇.九三メートルの急曲線部かつ二五パーミル以上の急こう配区間であったことから当時の技術(と予算)ではそもそもトンネル化は難しかったのかもしれません。(国道白糸トンネルについて補足すると、小破砕帯の影響を少なくするためにトンネル断面を九九平方メートル逆巻式としている)

 そして、完成したこの切通し区間は石山坂に次ぐ難所であったと思われます。それは、現在の道路上に立ってもそれとわかるほどのものです。まだ停車場のなかった錦橋には給水炭設備があり、ここで一息入れて、もうもうと煙と蒸気を吹き出しながら最後の難所を駆け上っていったのだそうです。

 

 ちなみに尾根の張り出しを通っていた本願寺道路は、鉄道開業後にこの切通しをさらに削りとって拡幅し、線路と並ぶように造られた新道に引き継がれました。これによりのちに自動車による往来が可能になり、昭和に入るとバスによる温泉客輸送が始まっています(戦中に一時休止)。その後一般国道指定となりますが、昭和三七年一二月の白糸トンネル貫通とともに国道の座をそちらへ譲り、その七年後の鉄道廃止に伴って線路跡を含めて拡幅されて現在に至っています。国際スキー場方面へのアクセス、錦橋経由のバス路線として今も利用されていますが交通量は少なく、また、近年進められている国道四車線化工事に伴って新トンネルの掘削が予定されており、切通しもまもなく消滅することとなるかもしれません。

 

 

※カットは、左が大正時代の切通しの図。新道開削後なので大正末期と思われます。右がほぼ同地点同方向の景色。切通しの真ん中にあった岩を描き足し、線路が通っていた部分をマーキングしています。平成12年撮影なので、現在は崖法面が覆われるなど状況が変わりつつあります。今後の新白糸トンネル掘削に伴ってさらに変化する可能性があり、この姿を見られるのはあとわずかかもしれません。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

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