定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その二三

「徳富蘇峰と定山渓」】

 

 大正七年一〇月一七日に開業した定山渓鉄道は、直後から各界から数多くの著名人を定山渓温泉と名勝地に招き入れていました。

 温泉客を呼び込むための宣伝活動も開業時から熱心に行われ、毎年、自社出版による観光リーフレットが発行されました。中でも大正一二年発行の『定山溪鐡道案内』序文では、徳富蘇峰(徳富猪一郎)の著書『北海道漫遊記』から定山渓温泉へ来訪した節を引用、紹介しています。

 

 蘇峰は、明治から大正、昭和と激動の時代にあった日本を見つめ続け、また時には言論と筆を使い時代に影響を与えてきた歴史家、評論家、思想家でした。若くして『國民新聞』を創刊、ジャーナリストとしても活躍し政界への影響力も強く、また歴史家として生涯をかけて大作『近世日本国民史』を著したことで有名です。

 

 定山渓温泉へ訪れたのは大正一一年八月二八日。

 当時の定山渓温泉行きがこと細かく描かれ、いかに別天地であったかが文面から伺われます。定山渓温泉にとっては格好の宣伝材料として効果抜群だったのではないかと思います。

 そして翌年、小樽新聞社の創立三〇周年記念の一環で公募された「北海道三景」に選ばれ、このころから定山渓へ訪れる温泉客は飛躍的に増えて行きました。

 

~小樽より再び札幌に引き返し白石驛に下車し、定山渓鐡道に乗り換へ、定山渓温泉に向こうたのは八月廿八日午後四時半であった。予等のプログラムには、定山渓行はなかった。然も鐡道線路の故障は却て予等に此の幽勝を探る可き機會を興へた。支配人橘儀一君が、特に自ら案内者となられたのは良とに仕合であった。

汽車は豊年満作の稲田の中を行いた。やがて眞駒内牧場の中を貫いた。石切山を過ぎた。斯くして漸く佳境に入った。線路は愈よ進み、愈よ渓谷の間を上った。何處

 

迄も豊平川に沿うて遡るのだ。一方は御料林一方は大學林。其の中間には豊平川の淸流が迸りて湍となり懸りて瀑布となり、廻りて淵となる。定山渓に著したのは薄暮であった。予等は橘君の先導にて新開の市街を過ぎ、阪を下り、橋を渡り、向岸に新築したる定山渓倶楽部に投宿した。定山渓温泉は安政年間、松浦多氣四郎が一浴した記事あるも、其の近世的温泉となったのは大正七年鐡道落成以降だ。其の鐡道は延長十八哩、軌間三呎六吋軌条四十五封土の軽便鉄道だ。然も其の難工事であったことは途中の光景にて十分に察せらるゝ、詩人と商人とも兩立し難きが如く、風景と工事とも兩立し難い。橘君は頻りに紅葉の美観を説いた。併し紅葉の季節でなきも、尚ほ一遊の価値はある。

温泉は皆豊平川の左岸に湧き出でてゐる。否な川中に湧き出でつゝある。その状、恰も予の故郷、熊本懸水俣の湯出(のづる)温泉に類してゐる。川畔には、若干の浴地がある。何れも露天の浴地だ。中には所謂る千人風呂もある。温度華氏八十四度單純泉にて少量の硫化水素を含む。一浴體に適し、東京からの垢を濯うた。縁側から

見れば、向岸の火光チラチラと閃めき、崖下の川流は潺湲として聲あり。大樹檐を擁し、漸く川に横たふ橋身を認む、圓窓より新月を眺れば、傘を帶んでゐる明日の天気や奈何。

(中略)

大正十一年八月二十九日午前六時半、定山渓温泉、定山渓クラブの一室に於て。時に雨聲川の如く、全身冷氣に打たれ、急に火鉢を戀ひつゝ

(『定山溪鐡道案内』序文 大正12年発行 より引用)~

 

※『定山溪鉄道案内』大正一二年発行の原本は、早稲田大学図書館所蔵。

※カットは上記『定山溪鐡道案内』のコピーを元に写真など一部を差し替えて復刻したものです。

 

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