定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その二一「舞鶴の瀞」】

 

 白糸の滝停留場で下車し、線路を渡って急坂を降りてゆくと玉川橋を渡ります。その手前、右へ別れる小路をさらに降りると白糸の滝と、定山渓発電所。一方、玉川橋の上から右手川下側を見ると、温泉街を分けて流れる荒々しい渓流の姿はなく、ただ穏やかに流れる碧の淀みが広がっています。川の両岸は切り立った断崖で春のツツジ、夏の新緑、そして秋の紅葉を鏡のように映し出し、まるで今にも鶴が舞い降りてくるかのような風情から、誰からともなく『舞鶴の瀞』と呼ばれるようになりました。昭和初期の情景です。

 

 定山渓温泉を貫く豊平川はかつて、大変な暴れ川でした。この舞鶴の瀞もそれまでは、川の流れを遮るように『和尚岩』と呼ばれる奇岩がそそり立つ急流の渓谷だったのですが、大正一五年、錦橋下流に竣工した一の沢ダムによって水位が上がり、深く水をたたえた湖となりました。このダムは、同時に竣工した発電所の取水のためのもので大正一三年に起工。堤体高二〇.三メートル、堤体の長さ八三.九メートルの重力式コンクリートダムで、豊平川右岸の国道に沿って導水路トンネルを通し、二.五キロほど下流の一の沢川付近に設けられた一の沢発電所へ発電用水を送っていました。このダムがV字に切り立った一の沢渓谷を堰き止めた結果、ダムより錦橋付近で合流する小樽内川の水も集めて玉川橋付近までの水位が上昇。この人工湖が生まれたのです。

 

 このダムと発電所が竣工してまもなくの昭和二年、この玉川橋のすぐ近くに玉川聚楽園という遊園地が開業しました。舞鶴の瀞へ浮かべる貸しボートや屋形船の遊覧は定山渓温泉へ訪れる宿泊客に評判となり、玉川の舟遊びと称されて芸者衆と酒宴に興じる姿も多く見られたそうです。昭和四年の鉄道電化後は定山渓への本数も増えて、温泉宿泊の上客だけではなく札幌からの日帰り行楽客が急増。昭和八年にはその利便のために白糸の滝停留場が開設されました。

 しかし、昭和ヒトケタの観光ブームも長くは続かず、日中戦争や太平洋戦争の影が次第に濃くなってきた昭和一四年、流行語「贅沢は敵」に呼応するように訪れる人も減り、玉川聚楽園も廃業してしまいました。

 また、その後度重なる雪解けの増水や大雨などの影響もあって湖自体の堆砂も進み、次第に浅くなっていきます。シンボルだった『和尚岩』の姿もいつしか消滅してしまい、まるでお坊さんが読経しているかのような独特の姿も見られなくなりました。

 現在の舞鶴の瀞は流れこそかつてのように穏やかですが、堆砂によって透けて見えるほど川底は浅くなっています。ですが、札幌近郊では数少ない静かな景勝地であることに変わりはなく、ここ数年ほどは休日にはしばしばカヌーを浮かべる人たちを見かけるようになりました。この舞鶴の瀞を再び舟遊び場として復活させてはどうか、という声もあるのだそうです。

 

 ~附近に玉川舟遊所あり、静寂、紺碧の深淵十餘町、舞鶴瀞の稱あり。舟を做ふて探勝せんか奇峭並び連なりて碧水回るところ緑樹影相映じて静かなること鏡の如く渓谷の両岸土地高燥にして濶達路又なだらかにして逍遥散策の好地なり。(『沿線案内 定山渓鉄道』昭和一四年七月一日発行 より引用)~

 

~舞鶴瀞  定山渓驛より六町

定山渓の景勝緑橋の下流、渓流淀んで紺碧静寂の深淵となる、舞鶴瀞の稱あり。浴後など舟を做ふて探勝せんか、奇勝並び連って、碧水回る所樹影を映し、静かなること鏡の如く、一度こゝに至らんか其の幽邃さに心身を淸めらる。舟行往復三十町、半日の淸遊には頗る好し。

貸舟並ボート三十餘艘、一時間三人迄一艘金五十銭、此以上は一人に付十銭增し、和船貸切一時間船頭付八人金二圓、此以上一人に付二十銭增し、玉川聚楽園にて取扱ふ。(『札幌近郊定山渓温泉電鉄沿線名所絵図』昭和6年発行 より引用)~

 

※カットは左より、往時の舞鶴の瀞、現在のほぼ同地点からの景色、そして一の沢ダム。

 

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