定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その一六 「白糸の滝」】

 

 定山渓温泉の名勝地はたくさんありますが、この白糸の滝ほどその名の知られた場所は、そう多くはないのではないかと思います。今回はこの白糸の滝についてご紹介いたします。滝の存在を知っていても、実はこの滝は自然のものではないということをご存知の方は、意外に少ないかもしれません。

 

 滝の生まれは明治へさかのぼります。

 

 明治二〇年代、札幌では製麻会社の工場が自家の火力発電を始めたのを皮切りに、その後も札幌電燈舎などが小規模ながら火力による発電事業を行って一般家庭用に供給していました。やがて、豊平川の水力を発電に利用しようという人が現れます。最初の試みは実現には至らなかったのですが、その後の明治三〇年代中ごろに、東京の近藤修季という人物がドイツ人技師とともに札幌を訪れます。調査の末、定山渓に水力発電所を設ける計画を立案すると同時に北海電気株式会社を設立。明治三八年に、札幌近郊では初となる水力発電所建設工事が着工されました。この着工のいきさつについては、札幌電燈舎が水利権を買い取って建設を始めた、という説もあります。

 明治四二年にはこの定山渓発電所に二基の発電機が設置されて完成、定山渓温泉街のみならず、豊平川沿いに電線もつながって札幌市街地へと送電が開始されました。

 

 発電用水は定山渓温泉街の上流、名勝「銚子の口」と称されるところより木製の樋をつないで水路を作り、豊富な豊平川の水が導かれていました。しかしそのすべてが発電用に使われているわけではなく、一部の余った水を別に流す必要がありました。そのため発電所の上流側にあらたに掘割をつくってこの水を流したわけですが、この時、ちょうど本願寺道路(明治初期に東本願寺現如上人-大谷光榮によって開削された道路。後の国道二三〇号線の原型)の下をくぐった先の、幅の細くなった崖伝いに滴り落ちる滝が生まれたのです。後に誰が名付けたのか「瀧の白糸」、そして「白糸の滝」と呼ばれるようになりました。

 大正七年一〇月一七日に定山渓鉄道は開通しますが、白糸の滝停留場が置かれたのは昭和八年。ちょうどこの滝のすぐ上にホームと駅舎ができました。この駅のホームはこの二つの水路の間の狭い空間に建てられており、発電用水管を”鉄管横断箇所橋”と呼ばれる径間六.一メートルの桁橋で渡り、白糸の滝へ流れる水路は”余水川こう橋”という幅一.六八メートルのトンネル状の橋を設けて渡っています。余水川こう橋の方は現在でも当時の姿のままで残されています。

 

 近年、定山渓発電所の大規模な改修工事に伴ってこの余水川の護岸工事が行われています。コンクリートの壁に囲まれてしまった白糸の滝には、往時の写真からはすっかり様相が変わってしまいました。定山渓に古くから住む人の中には「白糸の滝はもうなくなってしまった」と口にする方もいるとか…

 しかし、発電に必要のない余った水を流している川、という性格上、時折水を止めて水

路そのものを清掃・整備している場面に出くわすことも過去にはありましたが、白糸の滝そのものは、今でも健在です。

 ちなみに、停留場が設けられた理由は、白糸の滝を降りた先の、玉川橋を渡ったところに当時貸ボートなどでにぎわっていた玉川聚楽園があり、その行楽客のためだったそうです。もっとも、当時名の通った役者さんや政界人が密かに訪れる際の、定山渓の裏口として、という理由も別にあったとか…

 

※写真は、左がかつての白糸の滝。右が2000年撮影のもの。このあと、改修工事のため白糸の滝が一時的に消滅する珍しい時期があった。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

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