定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その一五 「コロ1」】

 

 定山渓鉄道が営業していた五一年の間には、蒸気機関車から電車まで数多くの車両が走っていました。その中で、もっとも波乱に富んだ一生を送った車両といえば、やはりこの客車をおいて他にはないと思います。

 

 在線時の形式名は「コロ1」。木製二軸ボギー車。元は鉄道省で使われていた二等客車「フコロ5670」。開業間もなく宮様や政府高官をはじめとする貴賓客などが定山渓温泉へ訪れる機会も増え、専用車の必要性が高まったことから、大正一五年三月にこの客車を鉄道省より譲り受けることとなったのです。

 

 さらにさかのぼると生まれは明治二五年九月。北海道炭鉱手宮工場にてアメリカから輸入した台車を履かせて製造された純国産車で、一等客車「い1号」と称されていました。波型木目の艶やかな壁、真っ白の天井にシャンデリア。濃紺のふかふかのシートに真っ赤な模様織のカバーがかけられ、中央に置かれたダルマ型のストーブに洋式トイレ付と、最上級車の「開拓使号」(鉄道博物館所蔵)に次ぐ貴賓車でお召列車として活躍していました。しかし明治三九年一〇月に北海道炭砿鉄道が国有化された後は、続々と新造の貴賓車が登場するにあたって二等客車へ格下げされ、大正一五年当時には休車となっていたのでした。

 

 車歴が定山渓鉄道へ移ってからは、昭和二年に空気ブレーキ装備、翌年に改番されて「コロ1」となり入線。昭和四年には運用上の都合から連結器を電車(モ100)に合わせて位置上げ改造を施されたのち、電車と連結して使用されました。しかし、電車と比較すると台車があまりに貧弱だったため揺れが激しく、非常に乗り心地が悪く評判は良くなかったとか…。

 さらに貴賓車のためそもそも出番が少なく、昭和八年ごろにはとうとうロングシートに改造、豪華な装飾もトイレもストーブも取り払われて一般客車に格下げされてしまいます。その後も客車ならではの解結の面倒さから出番は減り続け、昭和一四年にはとうとう豊羽鉱山線の従業員専用車両となってしまうのです。誉れ高い貴賓車

だった面影はなくしつつも、急速に発展を続ける豊羽鉱山町の住民の足として、活躍の面目をなんとか保っていたのでした。

 しかしその期間も長くは続かず、昭和一九年の大出水による全山休山に伴って出番を失います。鉱山が復興された昭和二六年以後も、道路の改良によって従業員輸送もバスへと変わり「コロ1」は休車扱いに。そして昭和三七年にはとうとう廃車となってしまいました。 豊平停車場構内の引き込み線で留置され、雨ざらしのままに痛ましい姿をさらしていたのですが、当時の鉄道友の会北海道支部の小熊米雄氏が「北海道にとって由緒あるこの車両を保存すべき」と熱心に働きかけて保存が決定。翌年九月に国鉄へ寄贈されました。この約一年間に台車も取り外され線路からもおろされていたにもかかわらず、解体を免れていたのは奇跡的だったと言えるかもしれません。

 

 解体を免れて国鉄へ寄贈された後、苗穂工場で登場当時の一等客車「い1号」として復元、化粧直しをされて現在は、小樽総合博物館にて幌内鉄道時代の蒸気機関車「しづか号」とともに屋内展示されています。

 定山渓鉄道を走った数多くの車両の中で、現存するのがこの波乱万丈の人生を送った「コロ1」だけとなったのも、なんだかとても不思議なことのように思えて仕方がありません。

 

※写真は、小樽総合博物館に展示されている「い1号」と、豊平停車場構内に留置されていた当時の「コロ1」(右下 小熊米雄氏撮影)。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

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