定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その一

       「幻の起点駅 苗穂」】

 

 大正二年に定山渓鉄道の免許申請が行われたときの起点駅は、国鉄(当時は鉄道院)が明治四三年に開業させた苗穂でした。

 定山渓鉄道が誕生した目的は定山渓温泉への行楽客輸送がよく知られた一般的な認識ですが、実は・定山渓豊平川流域の御料林から切り出される材木の運搬・本格操業の準備が進められていた豊羽鉱山の鉱石資源の運搬というふたつの目的が先にありました。特に材木については、定山渓周辺の御料林から良質の原木が産出されているにもかかわらず、豊平川を使った流送に頼らざるを得なかったことから、品質低下の点で御料局の長年の悩みの種となっていました。さらに、明治四二年に運転を開始した定山渓発電所を皮切りに、途中いくつかの発電所計画が持ち上がり、そのための取水堰が設けられると流送が不可能となるため、代替輸送手段を求めていた背景がすでにあったのです。そのあたりの経過を紹介した新聞記事がありますので引用します。

 

起業の経過

定山渓鉄道敷設の企画は遠く明治二十九年函樽鉄道の敷設されんとする時、むしろ札函鉄道の急を絶叫され此線を利用して定山渓に敷設すべき線路ありや否やを調査せるに初まれり 当時御料林には搬出すべき木材三四万石を算じ御料局は森林鉄道の必要を認め居れり時の局長佐々木要太郎氏が鉄道用地を無代にて供与する故工費約丗万円を以て起業すべしと民間に慫慂せり此れ即ち今日の所謂定山渓鉄道の濫觴にして大正元年八月北鉄の野村局長の好意により実測に着手し翌年一月に亘り施業案の作成を了せり然るに企業に着目して施業の立案を為すの間約十有五年の歳月を閥したるが故此の間官邊の事情著しく推移し御料林野当局との接歩亦昔日の如く運ばれず最初の半官半民計画を変更して純民営事業とするの止む無きに至れり 随って大正二年二月商業会議所に区内有志の合同を求め協議せる際は七十二万円の予算を計上し同二月十二日願書を提出する運びに至れるが同七月その認可と共に起業方法を申告すべき機会に到達せり 然るに之を株式組織とするに就いては猶手続き上未了の點ありて延期に延期を累ぬるの余儀無きものありき

かくして一方可及的工費の軽減をはかり他方株式の募集に全力を傾注したり この間種々思わざる蹉跌を来し工事に着手するまでの間却々に苦慮するあり然も一方時日の遷延とともに諸式著しく昂騰し最初三十万円を以てもっとも軽便なる敷設を為さんとせる計画なりしも之を廃し這箇の如く工費七十余万圓を以て普通鐡道を施業せり云々

(『定山渓鉄道の施業 その経過と施設一般 北海タイムス大正七年一〇月一七日』 より引用)

 

 開業日の新聞記事ということで信憑性は高いと思いますが、そもそも御料林より産出される木材運搬が鉄道敷設のきっかけであったことがわかります。構想は明治からあり敷設用地も提供される準備があったものの、当時の札幌の財界人にはこの事業に関心を寄せた者はなく、のちにこの話に手を貸した形となる北海道鉄道管理局の野村局長によって実際に測量の手が入り、現実的な鉄道敷設計画立案が整えられます。大正元年のことでした。路線の大半が豊平町内を通ることから、野村氏は時の吉原町長を勧誘。白石駅を起点とする計画が動き始めます。吉原町長は札幌経済界に協力を求め、松田學氏を中心とする財界人による株の募集と会社設立準備が進められるのですが、一方で駅を置く予定だった月寒では通過予定地の土地買収が難航します。買収価格を交渉ごとに吊り上げる牧場主、陸軍歩兵部隊の練兵場の一部が駅予定地となることへの軍部の反対などで暗礁に乗り上げた計画は、松田學の私案により苗穂起点に置き換わり、大正二年に免許申請が出されることとなるのです。

 そしてその年の五月に軽便鉄道免許を取得。苗穂駅を起点に豊平川左岸に沿って遡り、石山の馬鉄橋がある付近で川を渡る路線計画で建設が始まろうとした矢先、未曽有の大災害が起こるのです。

 免許取得からわずか三か月後の八月に起きた大雨は、豊平川の氾濫を引き起こします。建設予定だった豊平川左岸区間は決壊。この時、定山渓の月見橋から豊平橋までの橋という橋が流され、札幌市街地にまでその影響は及んだそうです。その後、北海道庁による大規模な護岸修復工事などが行われることとなり、予定路線への建設が困難な事態となるのです。

 その後、大正四年に正式な会社設立を経たうえで再び

路線計画を大幅に変更、この時の起点駅は苗穂ではなく白石駅となりました。

 こうして苗穂駅起点は幻に終わるのですが、野村~吉原町長案である当初計画の白石起点から、なぜ苗穂へ変更したのかという詳しい経緯は定かではありません。想像するに松田氏は、出資者を募っていた過程でその成果が思わしくなく、一方で土地買収が難航するのであれば建設費圧縮のため豊平町内をあきらめた、と考えたのかもしれません。問題は、これらの検討を吉原町長抜きに進行していたという点でした。その後これが、華々しい鉄道開業にささやかな影を落とすことになりました。

 しかしながら札幌市民の目線で見ると、もし豊平川の大決壊が起こっていなければその後の市内の交通体系はかなり違ったものとなっていたかもしれないと感じます。この点はまた別な機会に書きたいと思います。

 

 さて、この「幻の苗穂駅起点」はやがて時を経て別な形で実現しました。昭和四年の定山渓鉄道東札幌~定山渓間の電化は、当時としては北海道初の大型高速電車として大人気を呼びましたが、電化に際して会社は北海水力電気株式会社が出資。この会社は王子製紙株式会社系であり、その王子製紙が大株主である北海道鉄道の起点駅が苗穂駅でした。定山渓鉄道と北海道鉄道は同系会社という関係でもあり、昭和六年には東札幌~苗穂間を電化延長、北海道鉄道の専用ホームへ待望の定鉄電車の苗穂乗り入れを始めます。自社起点駅ではないにせよある意味「苗穂駅起点」が実現したわけですが、これは昭和三二年の気動車による札幌駅乗り入れまで続き、特に国鉄列車からの乗り換え利用者に喜ばれたそうです。

 

 

※カットは昭和二七年ごろのダイヤ((株)じょうてつ)。上り四列車と下り七列車が苗穂駅直通(赤線)。この改正では四往復の直通列車が運転されていた。右下は電化された豊平川橋梁を渡る定鉄電車。空中写真は苗穂駅周辺で定山渓鉄道乗り入れ線をマーキング(推定)。国土地理院 昭和二三年撮影。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

平成三〇年九月撮影。新駅への新築移転によりこの駅舎は消滅した。

ⒸhiDeki (hideki kubo) 2014           Contact : st-pad@digi-pad.jp