定山渓鉄道資料集

【定山渓鉄道沿線百話 その一七 「定山渓停車場」】

 

 定山渓鉄道の終点駅が定山渓停車場です。もちろん大正七年一〇月一七日の開業と同時に開駅しています。豊平停車場同様、開業当時はやや西側に建てられていましたが、昭和四年の電化に際して温泉街へ降りる小路に寄せて移転改築されています。どちらも定山渓近隣より産出された良質の木材を豊富に使用して建築され、定山渓温泉の玄関口として親しまれました。

 

 定山渓鉄道は豊平川に寄り添うように線路が敷かれ、沿線の石山、藤の沢、簾舞と常に集落の中心に駅を置いて地域の発展を担ってきました。この定山渓でも本来ならば温泉街に駅があれば、とも感じるところですが、温泉街が渓谷の下という地理的条件もあって、街道筋でもあった現位置への設置となったようです。しかしそれは、街としての定山渓の形成を早めることにつながりました。敷設工事に伴って停車場隣地にあった定山渓小学校が現在の場所へ移転、跡地に温泉旅館「豊流館」(のちのあけぼの旅館、現定山渓万世閣ホテルミリオーネ)が線路沿いに開業、さらに食堂、土産屋などが立ち並び、温泉街の下町に対する、住宅、商店街を形成し始めた上町の象徴ともいえる存在となりました。その要因となったのは、林業の急速な発展です。

 

 定山渓停車場にも隣接して切り出された材木の集積場(土場)が生まれ、製材工場もできました。ちょうど時期を同じくして本格採掘の始まった豊羽鉱山とともに、産業が人を呼び住む人が増え活気に満ちた街へと変わっていったのです。大正となったころには人口約一三〇人ほどだった定山渓は、鉄道開業後には七五〇人ほどに増えていたのではないかと推定されています。

 

 当時の周辺の森林には、定山渓を中心に薄別川、小樽内川、豊平川流域に、樹齢二〇〇年以上のトドマツやカラマツなどが密集する原始林が多く、材木原料としての良好な資源が眠っていました。歴史的には、宝暦五年(一七五五年)ごろ三代目飛騨屋九兵衛がこの地に入り伐木を始めて江戸、大阪へ送っていたほか、天明元年(一七八一年)ごろには石狩場所請負人、三代目阿部屋

(あぶや)村山伝兵衛が引き継いでいたという記録が残されています。切り出された材木は川での流送がほとんどで、豊平川から石狩川へと流され、石狩より船で江戸へと運ばれていました。明治に入り、国有林だった定山渓周辺の山林は皇室財産として御料林となって札幌営林署定山渓営林事務所が置かれ、同時に造植林、治山治水、開拓入植まで営林署の手によって計画的に行われるようになりました。それでも切り出される材木の輸送には、流送と馬車輸送に頼る時代が長く続いていたのですが、それがこの定山渓鉄道開通と同時に貨車による運搬が開始されて輸送量が飛躍的に増大。「温泉」の顔のほかに「造材」としての定山渓が全国的に知られることとなりました。

その後、山で切り出される材木を効率的にさばくため、昭和13年には営林署による森林鉄道の建設が始まって定山渓停車場へと接続しています。

 定山渓停車場は現在の国道二三〇号線に沿って、定山渓万世閣ホテルミリオーネと定山渓グランドホテルとの間に挟まれた場所が、その構内でした。開業当初より蒸気機関車のための転車台と給炭給水施設が設置され、その後、昭和四年の電化後は二線の電車庫を増設。昭和一三年からは先述のとおり営林署線への接続線が延びています。昭和四四年の営業廃止後は、駅舎はバス停留所待合室として、構内の一部はバス待機場として利用されていましたが、昭和五一年に再開発のため駅舎は解体。現在は定山渓スポーツ公園、および温泉利用客向けの一般駐車場として利用されています。

 解体された駅舎の土台として使われていた札幌軟石の一部が、公園の一角に設置されています。

 

※写真は、開業当時の定山渓停車場(左上 定山渓観光協会提供)、廃止後の昭和49年 バス待機場となった駅ホーム側(右上 筆者撮影)、そして定山渓停車場構内図(下 昭和38年当時1千分一図を縮小)。

 

※内容はあくまでも現時点までの研究成果による執筆者の主観です。新情報などで不定期に内容を更新する場合があります。予めご了承ください。

 

 

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